失敗を恐れない姿勢でスズキの経営をリードし、名経営者と評された鈴木氏だが、最も大きな功績として語られているのが、今や世界3位の四輪車市場に成長したインドに早々に進出したことだ。1980年代の当時、誰も見向きもしなかったインドにいち早く参入を決めた鈴木氏を、周囲は「先見の明がある」と高く評価するが、鈴木氏本人からすると、「どんな小さな市場でもいいから一番になる」ことを重視してきた結果であり、インドで先行できたのも「半ば偶然のようなもの」と、幸運に恵まれただけと強調していた。 インド進出のきっかけは、海外出張した社員からインド政府が国民車構想のパートナーを募集していることを鈴木氏が聞きつけ、申請を指示したことだ。すでに申請は締め切られており、頼み込んで補欠で認められた。先進国の自動車メーカーは米国市場を重視、インドに本気で自動車産業を育成しようと考えたところは皆無に等しかった。その中で唯一、スズキは来日したインド政府の調査団に対し、トップの鈴木氏自らが交渉の表舞台に立った。こうした前向きな姿勢が評価され、82年にスズキのインド進出が決まった。 インド政府との合弁会社マルチ・ウドヨグにスズキは26%出資し、83年に2代目アルトをベースに、排気量800ccエンジンを搭載した「マルチ800」を発売した。日本で償却を終えた生産設備を活用して原価低減を徹底、価格を抑えたことで爆発的に販売を伸ばした。 スズキがインド事業で成功したのは、鈴木氏ら幹部が日本と同様、インドの工場でも自ら現場に足を運んで「工場監査」を定期的に実施。現場を確認した上で、日本式の工場運営をベースに、現地の仕様に合わせるローカライズを推進してきたことが大きい。階級意識の強いインドで鈴木氏自らが社員食堂で従業員と並んで食事するなどして日本流を浸透させた。労務管理にも日本式の労務管理を導入、労使協調路線をとってきた。 スズキの世界販売は、今やインドが半分以上を占めるほど、インド事業はスズキの経営の屋台骨であり、成長の要だ。その礎を築いた鈴木氏は、90歳を超え、現役を退いた後も、インドに何度も足を運んだ。 鈴木氏の経営手腕によって、着実に成長を遂げてきたスズキ。失敗もあったが、アライアンスをうまく活用してきた面も大きい。鈴木氏がスズキの社長に就任してから3年を経た1981年、最初の提携事業となった相手が当時、世界最大の自動車メーカーだったGMだ。ガソリン価格の高騰で小型車の需要が高まる中、GMはこの分野に長けているスズキに、GMと提携していたいすゞ自動車を通じて声をかけた。米国に販路を持たないスズキとしても、米国市場向けに小型車の開発をほぼ終えていたことから、GMの提携申し出は、渡りに舟だった。 当時、世界最大の自動車メーカーであるGMをクジラに例えるとスズキはメダカであり、スズキはGMに飲み込まれて、経営の主導権を失うとの観測が強かった。これに対して鈴木氏は提携発表の記者会見で「GMがクジラなら、スズキはメダカではなくて蚊。メダカなら飲み込まれても、蚊ならいざという時、空高く舞い上がって飛んでいける」と、煙に巻いたのは有名な話だ。 鈴木氏がGMを、自動車づくりの基礎を教えてくれた「師匠」と呼ぶように、両社のアライアンスはうまく機能した。特に鈴木氏は、GMのトップだったジャック・スミス氏と信頼関係を築いた。しかし、2006年にGMの経営が急激に悪化すると、保有するスズキ株式の売却を申し出た。スズキはこれを受け入れざるを得なかった。08年まで27年間続いた両社の関係は、GMの業績不振であえなく幕を閉じた。
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